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2022-04-07 22:30:00

中大附属の思い出

中大附属の思い出

 

 

 

1,「なぜ中附? なぜ農大?」

 

 私の出身高校は、小金井市の中央大学附属高校です。

 

 ただこれまで、あまり出身高校については語らないようにしてきました。面倒だからです。

 

 特にこの10年余りは、東京農業大学の校友会・OB会活動に力を入れてきましたから、尚更です。

 

 なぜ中附の卒業生が、なぜ農大に進んだのか?

 

 誰しも思う疑問だと思います。

 

 私自身も、15歳で中附に入った時点では、そして高校3年の夏休み前までは、中央大学に進学するつもりでおりました。最初は法学部を考え、その後理系クラスに進んだので理工学部を考えておりました。

 

 農大に進んだのは、もちろん農家を継ぐには農大に行っていた方が有利だと思ったからです。農大に行ったのは良かったと思っているし、4年間は充実していたし、今も農大が好きで農大のOB会の活動をいろいろやっています。

 

 なぜ中附?と言われれば、高校受験で受かったからとしか言いようもありません。近くにあって自転車で通え、自由な校風で、受験勉強せずに大学に行け、そして、早稲田高等学院に落ちたからです。中学受験で落ち、もう受験勉強はしたくなくて大学の附属校を受けたというのがホンネでした。

 

 高校3年の夏休みの直前に、農大を受けたいと担任の武市先生に言ったところ、生物の妹尾先生が農大卒なので相談するようにということと、他の大学の農学部も考えなさいと言われたと思います。実際には、妹尾先生に相談する前に地学の北原先生に呼ばれ、いろいろ話を聞かれた記憶があります。授業では教わっていませんが、生物で当時非常勤講師だった平野先生にも呼ばれたこともあり、いろいろアドバイスいただきました。

 

 他の農学部を考えなさいと言われたのも、おそらくは中大と比べて農大が低く見られていたからだと思います。今なら農大の偏差値も(学科にもよりますが)上がってきているので言われないと思います。筑波大農林学類、千葉大園芸学部、農工大、静岡大、信州大、明大、日大など思いつくところをいくつか調べましたが、推薦入試があるところが限られ、また推薦があったとしても英語の試験があったり、試験日が遅いので中大の推薦との兼ねあわないところばかりでした。ちなみに、高校3年間は受験勉強を一切していませんでしたので、推薦入試以外は考えていませんでした。

 

 農大の推薦入試であれば、試験は面接と作文のみで、試験日も比較的早く、万が一農大に落ちても中大の内部進学ができる日程でした。武市先生からは、農大が万一ダメだった時には必ず中大に行くように言われ、理工学部のいくつかの学科には希望を出していました。

 

 農大の推薦入試は、当時は5倍を超す倍率だったと記憶しています。学科定員240名の3割72名が推薦入試の枠で、そこに300名を超す応募があったはずです。13号館1階の一番大きな教室が満員だったと記憶しています。

 

 合格発表を見に行き、合格を確認し、農大通り商店街の公衆電話から中附の教員室に電話を掛け、武市先生に報告をしました。

 

 「分かった、中大の推薦は外しておく」とだけ言われたと記憶しています。

 

 その後、しばらく教員室がざわついたと聞きました。

 

 翌週の授業で、確か渡邊という国語の先生の授業の冒頭、

 

 「君たちの中で農大に行く生徒がいるらしいが、誰だ?」

 

と言われ、まだクラスの誰にも私は農大に行くとは言っていなかったため、クラス中がざわつき始めました。仕方なく、

 

「先生、言わないでくださいよ」

 

と、自分から名乗り出ました。2学期の期末試験、つまり中大への内部進学の最終の試験前でした。

 

 

 

 

 

2,自由に学ぶ、自由を学ぶ

 

 中附の特徴は、何よりも自由があるということです。

 

 校則は生徒手帳に5行くらい書かれているだけです。「自由とは自己を律することによって得られる」から始まる心得があるだけで、あとは特に決まりらしいことはなかったと思います。70年代の学園紛争の結果、という風に聞きました。それ以前は普通に厳しい学校だったようです。

 

 例えば、昼食を昼休みに食べなければならない決まりはなく、3時間目と4時間目の間の10分休みに食べても良いことになっています。何なら、2時間目と3時間目の間の休みでも食べに行けます。学食の席数が限られているので、全員が昼休みには食べられないから、というのが表向きの理由ですが、ともかく次の授業に間に合えば特に何も言われませんでした。

 

 制服もなく、何を着ても何も言われません。私は入学式だけは中学の学ランのボタンだけを取り換えて出ましたが、次の日から卒業式の前の日まではGパンでした。男子校でしたので、その点も気楽でした。

 

 修学旅行もありませんでした。先輩方が悪い事ばかりしたからなくなった、とのことだったようです。

 

 こういったことも含めて、自由であることと、自由とは何かを学ぶ雰囲気があったことが中附の学風だったと思います。先生はほぼ何も言いませんでしたが、自由を履き違えるな、という先生方の無言の圧力みたいなのを感じたこともありました。自由とは何をしても良いということではない、自由の裏側には責任が付いて回る、ということを学ぶ3年間でもありました。

 

 

 

 

 

3,学ぶ先生の姿から、「学ぶ」を学ぶ

 

 当時はまだ、いわゆる「半ドン」で週休2日制ではありませんでしたが、先生には週1日の「研究日」がありました。先生によって曜日が違いますが、平日週1日学校に来ない日がある、ということです。

 

 最初は、テイの良い週休2日、時代を先取りした週休2日制だとばかり思っていました。もしかしたら、そういう先生もいたかもしれません。

 

 実際には先生方は研究日に限らず、研究をされていました。先生方の専門分野について、独自に研究を進めておられます。高校ではかなり珍しいと思いますが、紀要が発行され、先生方の論文が多く掲載されておりました。それが図書館で読めました。

 

 芥川龍之介の専門、という国語の先生がおられました。で、3年間の国語の授業では必ず1回は芥川龍之介が出てきます。教科書とか関係なく。

 

 国語では、詩や短歌・俳句などを専門にしている先生もおられました。中附の入学試験にはこれらの分野が出やすいと言われていたことの理由が、入学してから分かりました。この分野も教科書と関係なく、毎年扱われます。

 

 宗教史を専門にした日本史の先生の授業は、やたら鎌倉仏教の時間が長かったです。

 

 映画評論?が専門の先生は、新聞部が発行していた中附新聞に映画評論を連載していました。学年ごとの映画鑑賞会が毎年1回はありましたが、この先生のセレクションでした。

 

 韓国語が専門の英語の先生(?)がおられ、今度韓国に旅行に行きたいという生徒がその先生のところに相談に行ったところ、2時間以上も韓国の話をしつづけ、生徒は虚ろな目をして帰って行ったとの話がありました。

 

 アラビア語が堪能な先生、さまざまな地図の収集をしているという先生、本当にいろいろな先生がおられました。1年の担任の寺島先生は、英語の先生でしたが、地域的にはオーストラリアが専門で、話す英語もオーストラリア訛りでした。

 

 中でも専門性というと、生物の妹尾先生は農大で昆虫分類学を学ばれ、博士号を持っておられました。ヒゲナガゾウムシ科の昆虫をタイなど東南アジアに採集に行き、何十も新種を発見して名前を付けておられます。

 

 皆が授業を受けたくない時などは、教室の前に座っている生徒が「先生、虫の話してください」といえば、優に1時間は昆虫の話をし続け、しっかり授業をつぶしてくれました。

 

 だからというわけでもありませんが、多くの教科で教科書は最後まで終わらず、生物では生態学の分野は手付かずだったと記憶しています。日本史も大正時代くらいで終わったはずです。

 

 先生方が特定分野に興味と専門を持ちながら研究を続け、学ぶ姿勢を垣間見ることができました。学ぶとは何かを学ぶことができたと思います。教科書を最後まで終わらすことよりも、それは私達には興味深い、勉強になることでした。大学附属校であり、大学受験のない学校でしたから、それが可能だったのです。

 

 

 

 

 

4,「超高校級」の高校

 

 今はなくなってしまいましたが、図書部というところに所属していました。

 

 中附は図書館の施設が立派で、「超高校級」とか「公立の図書館並み」とか言っていました。そこを自由に使えるらしいということと、部員が少ないので好きなことが出来そうということで入りました。いろいろな文章を書いて同人誌のようなものを出していました。また、他校の図書委員会との交流もあり、それがとても楽しかったのを覚えています。付き合いがあったのは、慶応日吉、学習院、立教、立教女学院、日本女子大附属など、やはり大学の付属高校が多かったです。

 

 中附には「超高校級」という言葉が良く似合います。図書館の施設もそうですが、格技場やプールなども、本格的過ぎて並みの学生には付いていけないレベルでした。水泳部が実質「水球部」のためプールの水深がものすごく深く、水泳の授業はしんどかったです。

 

 超高校級なのは、高校自体が受験校ではなく、もう半分は大学に入ったようなものだったからだと思います。生徒の意識も超高校級でした。

 

 高校の授業は、前述のように先生方の専門性もあって面白いものが多かった反面、適当といえば適当でした。多くの学生は授業にとらわれずに、自分の好きなことに向き合っていたと思います。

 

 数学とか、変人的に出来る生徒がいるんです。自分も数学は得意だと思っていましたが、そのレベルではない、超人的というか、変人というか、コイツは何がどうしてこんなことができるんだろうかと、思うレベルでした。ただし数学だけです。物理も化学も、他の科目は平均より少し下、という人でした。

 

 運動系の部活に力を入れていた学生も多かったですね。アメリカンフットボール部が関東大会で優勝したり、あとはバレーボール・ハンドボール・バスケットボールが全国大会優勝経験がある古豪で、盛んでした。

 

 大学の勉強の先取りをしている生徒が結構いました。図書館が超高校級でしたから、大学で読むような本がたくさんありました。そういうのを、大学生になった気になって読んでいる人が多かったです。私が農業に興味を持ったのも、図書館の本が最初でした。

 

 そんなわけで、勉強は定期試験の前1,2週間はみっちりやるけどあとは何もせず、普段は自分の好きなこと、興味を持っていることに取り組んでいる生徒が多くいました。その興味の内容というのが人それぞれで、高校生らしくない、超高校級なのが、中附の生徒だと思います。

 

 私が中附を出て農大に進んだのも、こうした意味では必然だったのかもしれないと、今は思うのです。

 

 

 

 

 

5,長女の受験

 

 長女が中学受験をしたい、塾に行きたいと、4年生の頃に言いだしました。それまで学校ではよさこいをするほかに、スイミング、ピアノ、英語、ソロバンと、一通りの習い事をしてきて、いよいよ来たかと思いました。

 

 私自身は中学受験で失敗しており、妻も失敗しています。そして、それぞれが落ちた学校というのが、国立の桐朋と調布の桐朋女子ですので、結婚する前からこんなところで赤い糸で結ばれていたのかと思っていました。だから、子供ができても中学は受験させないというのが共通の認識でした。そのはずでした。

 

 長女が受験したいと言い始めると、なぜか妻も同調し、ともかく塾に行くことになりました。私は、どうせ塾に行くならば、四谷大塚かあるいはZ会など難しめのところを推しましたが、結局入ることになったのは栄光ゼミナールの花小金井校です。

 

 〇〇ちゃんも行くから、というのが大きな理由だったようです。それは違うんじゃないかと私は言い続けましたが、取り合うことはなかったです。

 

 私は、「塾に行くことは良いけど、私立中学を受験するかどうかは別問題」と言い続けました。

 

 勉強する習慣づけができるなら悪いことではないが、受験して落ちて泣くなら受験しないほうがマシと思っていました。最終的には農大に入れたいという気持ちもあり、高校で適当なところに入ってくれさえすれば良いと思っていました。

 

 5年生になってコロナの状況からオンライン授業になったりもしました。それ以外では、ひたすら妻が送迎していたようです。私は、塾に行くという行為自体、つまり自転車で行くなり、バスで行くなり、そうした行為の中に勉強があると思っていたので送迎するなと言い続けましたが、このコロナ下では仕方なかったかもしれません。

 

 私自身の中学受験の塾の思い出といえば、毎週高田馬場まで通った電車の記憶でした。他の生徒がしない経験をする中で、培われたものがあったと思っています。大雪で西武線が止まり、高田馬場で取り残されたとき、半日かけて池袋と所沢を経由して帰ってきた記憶が、今も忘れられません。

 

 5年生になって塾の先生に志望校を聞かれ、妻は中大附属と答えたようです。

 

 私が受験には反対しており、中附ならば母校なので反対しないだろうということで言ったようです。良くできた妻です。私の性格をよく知っています。その通り、中附なら良いかなと思うようにもなりました。

 

 ただ当初は、娘の成績もそこまでではなかったようです。

 

 〇〇ちゃんが行くから私も塾に行くと言い出しているくらいですし、このままの成績であれば公立でも良いくらいに思っていました。

 

 6年生になり、塾の勧めもあり週1回練馬校にも通うようになりました。また、いくつかの模試も受ける中で、成績も上がってきて、中附を第1志望にしても良いだろうというところまでなりました。何なら、もう少し上の学校でも良いのではないかとまで。吉祥女子、豊島岡、学習院女子などという学校名も浮上しました。

 

 ただ第2、第3希望で受験した練馬の富士見、埼玉の星野学園も含め、学風という面では中附は全く違うように思え、こういう学校選びで良いのかと、私自身は思っていました。他の学校は、比較的厳しい学校が多く、そして、女子校です。中附は共学で、大学附属で、校則がなく自由な校風です。どちらが長女に合っているかと考えると、どちらかというと厳しい学校なのかもと思っていました。

 

 

 

6.コロナ禍の受験

 

 コロナ禍で受験の仕方というのも変わり、そして学校見学のやり方も変わりました。文化祭などは見学できず、学校見学会などもおおむねオンライン配信となりました。

 

 しかし、私自身は対面なら行くことがなかったであろう中附の学校説明会をYOUTUBEで見ることができました。まず最初に驚いたのが、司会をされていた教頭先生が、私が高校3年で地理を習った篠先生であったことです。「篠先生、変わったなあ。こんなだったっけかなあ。老けたなあ、面影ないなあ」などと、娘の前で余計なことを言っておりました。その後、各教科の主任の先生が受験対策の話をされました。算数、国語、社会と続き、最後に理科の先生が出てきたところで私はイスから転げ落ちそうになりました。私の高3の担任の武市先生でした。「武市先生、変わんないなあ、全然変わらない」先生の話している内容は、まさに入試の出題傾向や受験対策の勉強の仕方なので重要な話でしたが、全く私の頭には入りませんでした。

 

 2022年に入り、コロナ第6波、オミクロン株の猛威で小学校でのクラスター発生や学級閉鎖などという話を聞くようにもなりました。西東京市では1月下旬から全校、学校閉鎖になったとも聞き、自分達もどうしようかと思っていた時期でした。

 

 もう、どこの学校に受かるか落ちるかとかではなく、とにかくコロナにだけはなってくれるな、そんな気持ちでいました。コロナ陽性者や濃厚接触者は、ほぼ救済策がないのが中学受験です。娘は最後まで学校に行くことにこだわりましたが、最後1週間は休ませました。

 

 最終的に受験した学校はすべて合格しました。

 

 今では、合格発表もネットで見る時代、そして早いところではその日の晩に、中附の場合も翌日の朝9時には発表がありました。中附の発表の時間帯は富士見を受けておりましたが、合格の知らせをとりあえずメールし、その後私が書類を受け取りに中附に駆け付けました。およそ10年前に同窓会総会に出席して以来、校舎に立ち入り、思い出深い図書館の中で、校長先生より直接に合格証書を頂きました。

 

 

 

 

 

7.変わる中附、変わらぬ母校

 

 合格発表から2か月余り。

 

 いよいよ本日入学式でした。

 

 この2か月の間で起こったことは、まず、第1回目の合格者登校日で制服の採寸が行われたことです。

 

 私にとっての中附は、制服がない中附。制服を廃止した中附。

 

 今は、やっぱり制服があった方が良いということで、しかも、上衣、下衣それぞれ何パターンか用意され、自分で選んでコーディネートできるという、イマドキの制服「中附スタイル」でした。入学金29万円のほかに、制服と体育着で20万円以上を払うことになりました。

 

 その他にも、いろいろな決まり事についての説明があり、正直言うと、これが中附かと思うようなこともさまざまありました。

 

 変わる中附。

 

 長女は中大附属中学校の13期生になります。中高6年間で生徒は入れ替わりますからもう2回転したことになります。その間の教育経験で、おそらく中附もここはこうした方が良い、これはしない方が良いという経験を積んできたことと思います。

 

 何もかも自由、3時間目が終わると一目散に食堂に走り、3分でカレーライスを流し込み、何事もなかったかのように4時間目の授業に戻ったあの時代の中附の生活を、今の時代の中附、少なくとも中大附属中学校の生徒にさせることはないようです。

 

 自転車かバスか、通学路を申告し、通学途中の買い食いや買い物・寄り道も原則禁止とのことです。女子高生が帰宅途中にサイゼリヤやジョナサンでドリンクバーだけ頼んでおしゃべりしているのは普通だと思いますが、中附とは言え、中学生が先取りしてはいけないようです。

 

 しかし、私が中附に期待する教育は、まさに中附の教育であります。変わらぬ教育が中附にあるはず。

 

 中央大学を創設した17名の若き法律家は、イギリスで法律を学んだ紳士たち。その精神を引き継ぎ、英国紳士・淑女たる精神を学んでもらいたい。自由とは何か、責任とは何かを、肌身を持って学び、体感してもらいたい。自由に学び、さまざまな能力を身に着けてもらいたい。自ら進んで、いろいろなことを体験してもらいたい、それが中附の教育だと思います。

 

 母校に対して感謝の気持ちをもって、これから6年間の長女の学びを支えたいと思います。

 

 

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